言論は暴力の前には無力か:リベラル・アーツの必要性を叫ぶ

元偉い人が凶弾を前に倒れてしまった

役職についていた頃は相当な批判もあったことだろうが

皮肉なことに最終的には暴力の前に倒れてしまった

 

だがこれで「言論は暴力の前に無力」と叫ぶのはいかがなものだろうかと思い

この記事を書こうと思った

 

というのも言論というのは本来

暴力ではなく平和的な解決を模索するために行われるものであって

暴力に対して勝てるかどうか 強いかどうかということは

問題にならないからだ

 

暴力によって相手を倒したから勝ち とか

そういう世界ではないために我々は言論を続けなければならない

 

そこで必要なのがやはりリベラル・アーツなのだと思う

リベラル・アーツというとただいろんな分野を広く浅く齧るという

内実にばかり目を向けられ 時にはただのブルジョアの減額趣味とさえ思われてしまうきらいがあるだろうが

リベラル・アーツの本丸はそこにはない

 

己の専門領域に閉じこもらず

未知なことに対しても耳を傾ける

そうした態度を涵養することの謂である

それがリベラル・アーツだ

 

時には相手を批判しなければならないこともあるだろうが

お互いに耳を傾けあい 仮に合意に至らないとしても*1

なんらかのインタラクションが発生すること

ああ、自分とは違う考えの人もいるんだなと了解し合うこと

それだけで十分なのである

 

言論は暴力の前には無力だ

というかそもそも言論は暴力ではない

言論を暴力のように奮って自己正当化の道具のように使う輩がいるが

そうした輩にはあまねく反省を強いたい

 

相手を倒せばいい という論理は

言論の目的ではない

平和的解決*2を目指してこそ 真の言論家たりうるものである

 

僕はジョン・レノンを信じている

*1:ここで合意には至らないと但し書きをしたのは、多様性を認めることは必ずしも合意形成を目指すプロセスであるとは限らないからであって他者を他者のままにしておく、同化しないという意味合いを殊更に強調したいからである

*2:やたらと平和的解決とリベラル・アーツを結びつけたのは、『リベラル・アーツという波動』という書物の冒頭でそれが強調されていたからだ。受け売りである。

行為者相対性と義務論:トマス・ネーゲルを読むなど

今なぜか図書館に入ったStephen DarwallのDeontologyを読んでて

まあ私は規範理論上では義務論者なのでこれは読まないかんなと思って読んでいるところでした。

 

今日行き着いたのが

トマス・ネーゲルの「行為者相対性と義務論'Agent-Relativity and Deontology'」と題された論考なのですが、

下部を見たら『どこでもないところからの眺め』に入ってる論考で、

怠惰な私はそうだ日本語訳を読もう!というところでペラペラめくると

ちょうど「第9章 倫理」にあたる章がそこなんですね。

なので読んでみました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

Ⅰ.三種類の行為者相対性

ということでまずは例の有名な

・行為者の相対的価値、行為者の中立的価値(agent-relative/agent-neutralの区別)の区別を中心に見ていくらしいです。

 

・倫理の重要な構成要素として、非個人的で帰結主義的な面があるとのこと

 倫理は〈なにが起こるべきか〉にかかわるだけでなく、

 〈人はなにをおこなうべきか〉、〈おこなってよいのか〉も問題にする。

 〈なにが起こるべきか〉は中立的根拠によるけど

 相対的な根拠は後者〈おこなうべきか〉〈おこなってよいのか〉に影響を与える。

 

・哲学の議論では、中立的根拠と非個人的価値の覇権が相対的な形式をもつ三つの広範な根拠の種類から挑戦されるのが普通だそう。

 ①自律的根拠:個々人の欲求や計画、社会や他人とのかかわりから出てくるもの

 ②義務論的根拠:自分自身が他人に害を与えるべきでないという相対的根拠

 ③責務的根拠:特別な関係(親子、配偶者、共同体や国など)に依存する特別な責務

 

・以上三種類の根拠(+中立的根拠)によって通俗道徳のほとんどの領域が網羅されるが、常識はこれらが重大な内的葛藤を生むかもしれないことを示唆。吟味しよう。

 

・これら三種の非個人的倫理にとって例外に見えるものを規範功利主義や動機功利主義といった帰結主義の発展を利用した、より複雑な日個人的体系の中に位置づけようという試みがなされなかったわけではない。

例.ヘア『道徳的に考えることMoral Thinking』、スキャンロン「権利、目標、公正さRights, Goals, and Fairness」など

ネーゲルは、例外がいかにして中立的なものから独立して理解できるかの代案を示したい。特に自律と義務論にかんしてとりわけ顕著なのでこの二つに集中する。

どの説明の背後にも、客観的立場から価値を認められるもの、より客観的でない立場から価値があると客観的な立場からみなせるものとの不一致があるそう。

 

以下、Ⅱ.自律的根拠の話では個人の選好と客観的な価値の関係とか、Ⅳ.義務論の話、Ⅴ.行為者と犠牲者でトロッコ問題のネーゲル的な扱い方とか色々書いてておもしろいので、興味ある人は読んでみたらいいんじゃないでしょうか。

続きを読む

41歳のところで重厚長大な倫理学書を書いて出す

という野心があるわけだが

なぜ41歳かというと西田幾多郎が『善の研究』を出したのがその歳だから。

 

今その参考にD.パーフィット『重要なことについて(原題:On What Matters)』を読んでいる。

 

まず気にしたのがこの箇所だ。

シジウィックは自らの単調な大著『倫理学の方法』をいかにして書くに至ったかを述べる際、自分はカントとミルという「二人の師」を持っていたと言う。私の二人の師はシジウィックとカントだ。(パーフィット『重要なことについて』p. xvii)

いわゆる「功利と直観」を象徴する二人の哲学者を師としてあげるということですな。

絶対カントが入るのか。僕が書く場合、ヘーゲルじゃダメですかね?

ヘーゲルだとあともう一人どうしようかってなりますが。

とりあえず、ブランダム、マクダウェルあたりを漁ったうえで、

そこに対抗できそうなもう一人の師にふさわしそうな人を挙げるべきか。

 

で、なんやかんやあって本書の要約まで全部読んでみたわけですが、

例のアレですね、カント(的構成?)主義、契約主義、(規則)帰結主義が一致するっっていう話ですね。カント的契約主義とかカント的規則帰結主義ってなんですか。

 

僕も規範理論の統一理論を作りたいな。

ただ統一する方向でいいのか?

よくわからん。

 

少なくとも41歳如きでこのレベルの重厚長大な本を書ける気は

まったくしない。

酒を炭酸水に変えると健康になった気がする話

最近は酒を飲むのをやめました。

酒では労働と夏の日差しにほしい爽快感が得られないと感じられ始めてきたからです。

 

その代わりに

炭酸水に変えることにしました。

 

どこぞのアイドル院生の人が

ダイエットのためには水分を摂れと、

炭酸水を飲んでいたという話を聞いて

炭酸水を始めたわけですね

 

炭酸水はなんとも爽快感が得られるすばらしい飲み物ですよ

炭酸水を飲み始めてからなんとなく健康になった気がします

そのうち体重も減らせるんじゃないかと思います

 

炭酸水最高!

 

 

 

スフィンクスさんが相手からインテリされない理由

インテリというのは「陰照り」とも書き

太陽が照らす対象の陰のような存在の意をもっている

そういう意味では

 

私は太陽のような存在であり

いつも明るく元気いっぱいなため

「陽照り」と言った方が正しいと言えるため

インテリとは対照的な存在なのであるが

 

ところでヨーテリーというポケモンがいて

ブラック/ホワイトが初出だと思うが

初代で言うところのコラッタ枠で

進化したらハーデリアムーランドになる

 

アンチを育てるのも

一つの才能であるらしく

私のようにみんなの太陽であるような存在には

難易度が高いように思われるが

 

古代哲学でイデアは太陽の比喩が用いられており

古代ギリシア世界では太陽はどういう存在だったのか

確かに気にならんでもないなと思いつつ

なぜ月ではダメだったのだろうと思う今日この頃

 

月の裏側は狂気を象徴していると言われ

誰も見ることのない側だと

だが狂気というのは果たしていつも隠されているのだろうか

我々が常識的に日常を送っているこの当たり前こそが

一種の狂気ではないだろうかとたまに思う

 

すべては変化するものであるのだから

恒常的であるということこそ異常なのではないか

流れと漂いの中で彷徨っているのが

人間の あるいは存在のあり方ではないかと

ふらふらしながら思う

 

漂流者としてのあり方

そんな掴み所のない私は

 

インテリには相手にされない

 

 

以上

それでもしぶとく続ければ価値じゃね?

他人に認められなくてもいい

すぐに成功してなくたっていい

 

ただダラダラとでもいいから

粘り強く続けることが大事なんだなと

最近は思う

 

 

納豆のようにねばねば

ご飯にかけて食えばうまい

 

大阪人は納豆が食えないと聞く

確かに納豆は食い物ではないと豪語する大阪人もいた

 

でも僕は幼少時代

家にお金がなくて

一回の食事に 丼いっぱいのご飯に

納豆だけという時期を過ごしたことがあるから

納豆を食わざるを得なかった時期がある

 

そんな時期を乗り越えてきた僕だから

多少の貧乏生活には耐えられるのだが

世の中の人間は皆セレブな生活に憧れるらしく

やはり高くてもおいしいお店を知っている人は人気だしモテる

 

僕みたいに滅多に外食はせず

おいしい店を知らない奴はつまらない奴だと思われるし

誰にも誘われない

 

誰にも誘われないから友達もいないし

人付き合いも滅多にしない

 

そんな生活を送ってきたものだから

他人との約束事なんて根本的に大したことはないと思ってしまうし

すっぽかしても1ミリの罪悪感もない

 

最近はやっと大人になったので

せめてドタキャンする時は直前に連絡するぐらいにはなったが

大体その場で考えた理由ばかりで

基本的に僕の気が乗らなかったら

外に出たくない 人と関わりたくないという気持ちになる

 

社会生活は僕には難しい

人と関わらずに

最低限生存できるだけの額が毎月振り込まれて

生活ができたらどんなにいいかと思う

 

とにかくすべてがめんどくさい

お前らの存在がめんどくさい

 

 

勝手に生きてろよ

好きだった給食のメニュー

僕は給食食べれない子供だったけれども

ある日から食べられるようになった

 

何が好きだったかは覚えていないが

鰻がごく稀に出たときに鰻は好きだったから

鰻が嫌いな人の鰻をもらってた記憶がある

 

そんな鰻ももう食えなくなる日が来るのかと思うと

僕は寂しい

 

Oisix特別お題キャンペーン「好きだった給食メニュー」

Oisix(オイシックス)×はてなブログ 特別お題キャンペーン
by Oisix(オイシックス)