熊野純彦「人文学の現状と将来・私見」(『人文学と制度』西山雄二編) を読みました。
当該論文の解説は
小説を読むことが特殊技能と化しつつある昨今。
漱石の「現代日本の開化」を手掛かりに、勢力の消耗を意味する積極的活動と勢力の消耗をできるだけ防ごうとする消極的活動があって、学一般にもそれに当てはまるものがあり、人文学は前者の積極的活動に属しているのであると。消極的活動としての学は手段としての知に属するのに対し、人文学は特定の目的のために有用なのではなく、それ自体が目的となる。
人文学の窮状がなぜまずいかというと、現在の私たちが手段ばかり求めて、目的を求めなくなっているということなんだね。目的や意味について考えることを忘れてしまう時代だという。
即効性のある対策があるわけではないけど、外的要因に責任を帰したり、既得権に安住することも許されない、また、滅びゆくまま身を任せるのもダメだと。倫理学を応用倫理とする、みたいな目的知を手段知に切り替えるのも、禁じられる。
このように、してはいけないことははっきりしてるけど、なにをなすべきかについては見通しがついていない、という。
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筆者も認めているように、小説を読むことで私たちは世界の見方を学び、世界のできごとに対して意味を与えることを学ぶのだと。
私見で付け加えるなら、世界の側にだけでなく、自分自身の人生、存在について何らかの意味や目的を与えるものでもあると思う。
小説を読まなくなったってことは、自分自身への関心が失われてしまったということになるのだろうか。
日々の雑事に追われて、自分自身を見つめる暇がなくなってしまった社会というのはなかなかにつらいものがある。学問の窮状は国家の窮状、てな具合に。
あるいは、現代世界のあり方を、目的を抜きにした手段の連関として捉えるというのも一つの手なのかもしれない。
神は死んだじゃないけれども、目的なんてそもそもない不在でも生活は成り立つ。何とか私たちはやっていく。大きな物語の終焉とかいうやつ?
手段としての知として細々とやっていくというのも、それはそれで一つの生存戦略なのかもしれない、という気もする。
だが、そんな開き直りではダメだろう。
やはり人文学に救いをもたらさなければならない。
私がその犠牲になろう。
死をもって人文学に尽くせば
救いの道も見えてくるのではないのか
私一人の命でどうということにもならないだろうが
せめて人文学に一生を捧げた者としての矜持を見せたいものだ
さらば人類