言論は暴力の前には無力か:リベラル・アーツの必要性を叫ぶ

元偉い人が凶弾を前に倒れてしまった

役職についていた頃は相当な批判もあったことだろうが

皮肉なことに最終的には暴力の前に倒れてしまった

 

だがこれで「言論は暴力の前に無力」と叫ぶのはいかがなものだろうかと思い

この記事を書こうと思った

 

というのも言論というのは本来

暴力ではなく平和的な解決を模索するために行われるものであって

暴力に対して勝てるかどうか 強いかどうかということは

問題にならないからだ

 

暴力によって相手を倒したから勝ち とか

そういう世界ではないために我々は言論を続けなければならない

 

そこで必要なのがやはりリベラル・アーツなのだと思う

リベラル・アーツというとただいろんな分野を広く浅く齧るという

内実にばかり目を向けられ 時にはただのブルジョアの減額趣味とさえ思われてしまうきらいがあるだろうが

リベラル・アーツの本丸はそこにはない

 

己の専門領域に閉じこもらず

未知なことに対しても耳を傾ける

そうした態度を涵養することの謂である

それがリベラル・アーツだ

 

時には相手を批判しなければならないこともあるだろうが

お互いに耳を傾けあい 仮に合意に至らないとしても*1

なんらかのインタラクションが発生すること

ああ、自分とは違う考えの人もいるんだなと了解し合うこと

それだけで十分なのである

 

言論は暴力の前には無力だ

というかそもそも言論は暴力ではない

言論を暴力のように奮って自己正当化の道具のように使う輩がいるが

そうした輩にはあまねく反省を強いたい

 

相手を倒せばいい という論理は

言論の目的ではない

平和的解決*2を目指してこそ 真の言論家たりうるものである

 

僕はジョン・レノンを信じている

*1:ここで合意には至らないと但し書きをしたのは、多様性を認めることは必ずしも合意形成を目指すプロセスであるとは限らないからであって他者を他者のままにしておく、同化しないという意味合いを殊更に強調したいからである

*2:やたらと平和的解決とリベラル・アーツを結びつけたのは、『リベラル・アーツという波動』という書物の冒頭でそれが強調されていたからだ。受け売りである。