エジプト哲学入門:『アフリカ哲学全史』より

こんばんスフィンクスさん

みんな元気かな?

私もエジプト由来のキャラということで

東京都知事と同様カイロ大学卒業を詐称しているので

エジプト哲学をやっていこうと思います。

 

エジプト哲学とは言っても、

神話の方は有名ですが哲学なんてあるんかいな?ってなところで

文献を探すのに苦労するわけですが、

なななんと、最近あの気鋭の哲学研究者・河野哲也先生が

『アフリカ哲学全史』という新書を出されて

そこでは「古代エジプト存在論宇宙論」「古代エジプトの認識論、人間論」

という節が設けられているではありませんか。

実に興味深いわけで

私もエジプト哲学の基礎からまず学んでいきたいと思い

この書籍を手掛かりに概要をまとめてみようと思いました。

以下、『アフリカ哲学全史』(ちくま新書)pp.41-49の要約となります。

 

古代エジプト存在論宇宙論

・まず古代エジプト哲学として紹介されるのは

紀元前27~22世紀にかけた古代王朝で

「哲学者」「賢者」を意味する"Rekh""Sai"という言葉があったことだそうです。

 

・次に、「アンテフの碑文」(古代エジプト第12王朝時代:紀元前1991~1782)にて

哲学者は

そうでなければ無視されるような事柄を心に刻んでいる人であり、問題に深入りしたときに明晰な視力を持つ人であり、自分の行動に節度を持つ人であり、古代の書物を読み解き、その助言を受けて、複雑な問題を解決する人である(同書p.42より孫引き)

とあり、「正しい道を探す人」「昨日成し遂げたことを超える人」「助言を求め、助言を求められる人」「知者よりも賢い人」と定義されています。

いかにも古代の賢人って感じのイメージですね。

 

・「イブib」(心、心臓)

 知性・感情の座で、理性、感情、精神、心と身体は分離した実体ではないそう。

 ゆえに、生活のあらゆる局面が知の対象になり、知は生活で実践されるべきものだったとのこと。

 なんかプラグマティズムっぽくていいなあと思いました。

 問題発見力、古典の精読、絶えざる探究、既存の知識の批判的超克、対話的態度

 などは知の一般性を意味し、「真理maat」を求めるということだそう。

 

・存在、生成

"wnn"という言葉は「ある」「存在する」を意味するのと同時に「動く」「走る」も意味するそうで、存在していることと動くこと、走ることは同義とみなされている。

存在・実在の反対は幻想や錯覚、単なる感覚印象だが、それらは動かないということ。

 存在は完全性、永遠性と結びつき、至高の存在とは神=「ラーRa」である

 エジプト人にとって存在は過去・現在・未来とあらゆる時間のもとにあって、それが永遠の神であろうと特定の状況に限定された者であろうと、動的であり運動する。

 オシリス神もまた、死して復活を繰り返す不死の存在で、永遠に動くもの。

 

 "Kheper"という言葉はあらゆる可能性を有する存在を意味する。

 ゆえに、「生成する」「なる」「効力を及ぼす」を意味し、因果性を含んだ存在概念。

 創造主とは、「私は存在し、私におけるあらゆる可能性は、存在物として実現しうる」ような存在

 創造主の存在は「生成」または「効果」として現れる。

 存在することは、生成すること、効果をもつことである。

 

・心と物質

 心と物質は分離した実体ではなく存在の二つの局面

太陽神ラーは太陽という物質が神となった、神ー太陽(ラー・アトゥムRa-Atum)

この世の始まりには、水であり洪水であるナン(Nun)が存在していた。

 そこからラーは自分自身の力によって出現し、やがてあらゆる存在物を存在せしめた。

真理と正しさの神「マアトMaat」は、ラーの娘

太陽神の生命力は、あらゆる生命に宿っていて、その力ゆえに生命を存続させられる。ラーの生命力は、生物だけでなく、非生命の無機物にすら潜んでいる。

 人間の目的は永遠の存在=神になること、

 第5王朝(紀元前2498~2345)以降、ファラオは「ラーの息子」を自認するようになり、人間から神への途上にある者とされた。

 

・宇宙

 宇宙とは、いかなる境界や限界も持たない無限の存在。限界のない全体性。

 

古代エジプト存在論のまとめ

①始原の存在=水・洪水、可能性の海ナン→それ自身が神

 創造神の誕生以前に、天地が生じるよりも以前に、さまざまな神が生まれる以前に、存在していた。

 創造神含めあらゆる存在は潜在的な状態でナンの中に隠れていた。

 ナンは、形象や境界のない流動体、暗く隠され、不可触・不可視な存在

②神ー太陽(Ra-Atum):ナンから自己生成してきた創造神

 完成された終局のもの、すべてであると同時に無。

③大地(ゲブGeb)と空(ヌトNut):被造物の代表

 創造神は名付けることでこの世に存在物を作り出せる。

 存在物は、最初、創造神の聖なる「心」に生じた「考え」

 発話されることによってこの世に生まれる。

 存在物は「思考」と「発話」から生まれる

 

 

古代エジプトの認識論、人間論

・数学、幾何学が発展していた→論理的思考、推論についての考察が見られる。

 「定義から導かれることによれば(mi djed en)」「正しい手続き(iret mi kheper)」「解答(rekhet ef pw)」「証明の検討(seshemet)」「結論、正答(gemi. ek nefer)」

→批判的で反省的な思考の存在を表している

 

・「マアト」

 奴隷制、男女差別、死刑制度がなかった

→公平性、真面目さ、真実性、真理、正しさといった含意をもつ

"Maa"はもともと「実在」「現実」を意味し、「人工」「偽物」と正反対

"Maat"は存在、現実性を有する実在全体を意味する。

マアトは偏在的、包括的、あらゆる被造物に行き渡っている聖なるもの

 

 宇宙における実在性と秩序はマアトの働き。

 マアトは「真理」「正義」「正しさ」:古代エジプトの物理的・精神的な法を表現する究極の概念

 マアトは、道徳性や倫理性以上のもので、真理ー正義の普遍的な法が宇宙そのものの中に書き込まれていることを示す概念

 

・哲学者アサンテ:マアトを述べる表現活動における10個の徳目

①批判性、②献身、③自己制御、④規律、⑤寛容、⑥慈忍、⑦堅忍不抜、⑧信仰心、⑨精神的希求心、⑩イニシエーション

 

・カー

個々の存在物が存在するようになるのは、"Ka"と呼ばれる「魂」「本質」がその中に宿っているから。カーは、両腕を曲げて天に向けられた形象で表され、個々人に授けられている聖なる力、個体の生命力を意味しており、その人の行動を統べているらしい。

 

・悪の問題

カーが善なる神からやってくるなら、悪はどこからくるのかという問題がある。悪は、人間自身からくる。人間的本質としてのカーは善、人間には「心=心臓、イブ(ib)」があり、さまざまな働きをして悪をなしうる。

社会における不平等は神の計画のうちにはなく、平等は神の聖なる御業だが、不平等という過ちは人間の行為による。人間は後者に責任を持つ。

古代エジプトでは、人間は肉体、名前(レンrn)、影(シュトswt)、カー、バー(b3)からできていると考えられていた。

バーは人の頭と両腕を持つ鳥の形で表現され、個人を形作る肉体以外のあらゆるものを意味し、「人格」「精神的個性」とかいった形で訳せるだろう。→古代ギリシア「プシュケー」、西洋での「サイコロジー」など

カーとバーが死後合体することにより、死者は「アク」となって永遠に居続けることができるとのこと。

 

スフィンクスさんの雑感

エジプトにも哲学者らしい者と規定される人はいたが、

世界観としては神話から思想への途を辿る過渡期のような雰囲気がある。

 

存在を動的に捉えるのはとてもおもしろかった。

また心身二元論ではなく、一元論で心と身体は異なるに側面というところは

スピノザに通ずるような気がする(尤もスピノザの場合、実体は無限なので属性は心と身体のみどころではないが)

ラーが創造神で、その娘マアトが「真理」「正しさ」ということで

ラーが存在そのものであれば、マアトは知識と倫理の両次元での価値ということになるだろうか。

悪の問題も、神は善であるから、悪は人間に由来するというところは

アウグスティヌスにつながる発想ではないだろうか。

尤もエジプトに自由意志などというものはないだろうが、「責任」はあるようだ。

心理学の起源になっているバーという概念もまたおもしろい。

 

エジプトにも哲学的思考の道具になりうる豊富な概念があったということは

注目に値すべきだろう。